2012-07-11

いじめの定義

今日お昼のテレビでコメンテーターがいじめの定義を紹介してくれた。
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」が、いじめであるらしい。

これは2007年以降の文部科学省が定めたもので、以前は、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。」というものだったらしい。
いずれかひとつでも条件に外れれば「いじめ」と断定できないため、裁判で不起訴になることもあったとのこと。

定義としては、今のものでまずまずではないだろうか。

わが子には「もし、いじめにあったなら泣きながらうんこもらして逃げ帰ってもよい。」と教えている。それ以上にいじめという行為が恥ずかしいものであると言いたいのだが、果たして本質的であるか疑問も感じる。

とにかく、「強者もしくは多数派からの一方的ないわれのないしつこい嫌がらせや攻撃」には「脱糞して逃げる」は最適解ではないだろうか。(もちろん、脱糞する必要はないし、さらにそれをネタにされるような深刻な状況下では言うこともはばかれる。)

あるとき、息子が私に相談してきた。「A君が僕にスケベと言ってきた。クラスの僕の席が女の子の真ん中に位置するのが理由。別にそれが目的で座席を決めたわけではないのに。」とのこと。
また、「A君自身も女の子と熱心に話をしてたりして自分のことは棚上げだ」と続く。
ちなみに息子は小学六年生。

本人はそれなりに苦しんでいるようだった。自分の気持ちは違うのだけれど事実関係からきっぱりと否定することもできず。「違う」と言うしかない空しい抵抗に憤りを感じているようだった。
もちろん、自殺を思い詰めるレベルではない。

私は咄嗟に「いじめと嫌がらせは違う。言葉に窮するからと言ってすべてといじめとして逃げることはおかしい」と答えた。
親としては1対1なのだから戦ってほしいという思いで発した言葉だった。

確かにクラス内では、言葉でも力でもA君の方が上のようである。
これが複数の友達から囃されていたのなら状況は違うと思うが、あくまで1対1のようなのである。

子供であるからすべてを親に語ることができないのかもしれない。A君の周りには言葉は発さないまでも仲間の目が攻撃していたのかもしれない。
そうした微妙な力関係に配慮せず、額面通りに受け取り一蹴したことは間違いだったかもしれないと、ここへきて思う。

大人世界には当然いじめがある。格差社会は作られたものだし、消費税増税、国の借金も東電の値上げも、原発推進も天下りもすべて弱者への負担で成り立っている。
強者は言う「社会の構築・維持に一番大きく貢献しているものが良いものを得るのは当然だ。貢献度が少ないものはそれなりのもので満足すべきである。そうがっつきなさんな」と。

人権や人間の尊厳と経済とをいっしょくたに論議するのはおかしいだろうか。文化・文明は経済に裏付けされたものと捉えるのが科学的だろうと思う。(士農工商が成り立たなくなった歴史を見ればよくわかる)

それにつけても、子供の教育は難しい。

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