2010-11-23

一億総派遣社員

「一億総派遣社員」そうなる日も近いだろう。
人は、資本を持たぬものは、所詮労力を売ることでしか生きながらえることができない。

「ニーズ」に呼応する「労働」は楽しい。「よきにはからえ」に従う「労働」はなんとむなしいのだろう。
資本が集中するとなぜか後者が多くなる。

資本に群がるものはなぜか資本から離れまいと失敗を恐れるようになる。
結果、成果を出さ無い代わりに失敗を出さない手法が最善とされる。

成果とは新たな価値を創造・発見すること。価値判定は資本を持った他者が行い、成果には原資を要する。
今の仕組みは国を含め死に体だ。

資本は小さく分散されるべきだ。大きな資本は元金が保障されその原資となる。
大きな資本はそのまま大きな原資になりうるが、資本を発生させた社会への責任を伴うべきだ。
社会なくして資本はありえず、親の総取りではなく、同等の第二の資本が同社会で発生するよう努めるべきだ。

今はそれとは異なる方向へ進んでいる。我々は文化人ではなかったか。
一億総ブロイラーの道へ迷い無く進む。

平等という名の下に、少ない餌を取り合っている場合ではないだろう。平等という名の下に平等の機会を今一度、文化人として社会人として再考する岐路に立っているのではないだろうか。

派遣が悪いのか正社員が悪いのか、労働者の待遇も問題にすべきだが、むしろ問題とされるべきは資本の再分配制度ではないか。
持たざるものは、労働者待遇に流され、しがみつく。これは至極当然のこと。
大きな川の流れに翻弄され、大きな川の気まぐれにできた支流に感謝するのではなく、文化人なのだから、川を計画配備すればよいのではないか。
少なくとも、ここでいう川は自然・神でなく、個人の所有物だ。

2010-11-13

人口増加

日本も含めて先進国は少子化らしい。
でも世界人口は69億人。
これからも増えるらしい。

東南米のジャングルにすむ原住民が口減らしのためわが子を穴に生き埋めにする動画があった。
アフリカの砂漠を背景に細い手足の骨と皮だけの子供たちの写真をよく目にする。

農耕時代の日本でも、手伝いをさせるために子を増やし、口減らしで姥を捨てる風習があったらしい。
1971年から16年後の1987年で40億人から50億人。
その12年後の1999年には60億人。
そして11年後の2010年には69億人。

208年まえの1802年では10億人だったらしい。

今増えている人口は「手伝い」のためなのだろうか。
なぜ、間引かれる、干からびる命の子をつくりつづけるのだろうか。
命とは危機に瀕するときに子孫を残すようプログラムされているのだろうか。
人の子は生まれて即戦力になるようには出来ていない。

餓死をする環境にも関わらず子を育てようとするのはなぜか。
生存の術が他になく、逃避の結果として子孫を残す仕組みをもっているのか?
それでも、全うできないとしても育てるのはなぜか。

「東北地方は子沢山が多い。雪に覆われた冬では他にすることがないから」という話を昔聞いたことがある。笑い話にも聞こえるしもっともな風にも聞こえる。

人口増加の問題と餓死に瀕する貧困な家庭の子供たちを混同して考えることはできないだろう。
あたかも、餓死に瀕する子供たちが人口増加に寄与しているようなものいいになってしまう。

しかし、富める国の民が増えているのではなく、貧者の国の民が増えているのも事実だろう。
我々は何がしたいのか。

「子孫繁栄」ただこれだけのために生まれ、これだけのために生きる。
神から与えられた我々への命題に抗う、もしくは昇華するために必要なものは、やはり教育・教養ということになるのだろうか。

子供を餓死させてまでも増やし続ける文化は、日本には無い。
子供を増やさなければ、自分達の老後が不安にも関わらず、子をつくることも、ましてや世帯を持つことも敬遠されがちである。
それはなぜか、自分達の生活水準を下げてまでも子孫を残したくないからだ。
貧困における子孫繁栄はこの国においては自滅を意味することを皆理解しているのだ。

原始的な使命を麻痺させるほどの知恵を手に入れたからだ。
しかし、死に方までは社会は教えてくれていない。
また、それを学ぶ知恵をも持ち合わせていない。

人は社会に育てられている。社会から与えられた教養を身につけている。

貧困を受け入れる教養がいずれ5年以内になされるだろう。
単なる貧困ではなく文化的な貧困が発信されることを望む。