2017-10-04

恥ずかしい告白

セックスに関する思いつきに伴い、自分の恥ずかしい過去というか経験を思い出しました。ここに懺悔します。

私が中学二年生のころだと思います。
私はセックスというものを知りませんでした。おそらく授業で習っているはずなのに、なぜか私は何も知りませんでした。
もしかしたら勉強が苦手でしたので、他の授業と同様、授業中、先生の話を一切聴かず自分の世界に耽っていたのかもしれません。

それでも、女性を十分意識していましたし、女性の乳房や下半身にへの関心は人並みには持っていました。ただ、それがどのように機能し、どのような結果を伴うのかという知識が全くありませんでした。

確か暇な夏休みを自室で過ごしていたときだったかと思います。最近自分のあれが、つまりペニスがいつにも増して、気になり始めていたころです。
時折膨張する厄介なものだったのが、どうも膨張ともに「かゆみ」のようなわずらわしさを感じていたのです。

私は、何かの病気かもしれないと思いつつ、ひとりまじまじと自分のそれを眺めますが、ただ細くむなしく膨張している以外、外的問題は見つけられないでいました。
ちなみに、この時代の私は仮性包茎という状態でした。

私は、「かゆみ」の原因を突き止められず、「いっそのことかきむしってしまえ」という衝動に負けて結果を恐れず、好きなように掻きむしり始めました。爪を立てたか否か覚えていません。血が出なかったことから、虫刺されに対する掻きむしり方とは違ったのではないかと思います。

あるとき、かゆみの頂点に達したかと思ったその瞬間、私のそれは、本当にどっくんどっくんと音を立てるように波打ちながら液体を吐き出したのです。
快感よりも驚きに占められた私の頭の中にはなぜか、習ったこともない用語「精液、精液…」という言葉が何度も何度も繰り返されていました。

おそらく、友人同士が会話する、いわゆる猥談というものを聞きかじっていたのだと思います。その時に友人が先輩から聞いた話というものを思い出しました。
なんでも先輩は「ちんちんを強くこすると液体が出てくるぞ」というものです。我々は「何言ってんだ?そんなんで騙されて試すわけないだろう?」というように当時は一笑に付したものでした。

思い返してみれば、これが私の最初のカルチャーショックだったのかもしれません。
それまで信じていた常識が覆されるのです。男性器を女性器に挿入して、何かを吐き出すことを初めて理解できたのです。
確かに、雄しべと雌しべの理科の授業はありました。なんと純粋な心で、私は勉学に励んでいたのでしょう。

こうして私は、保健体育の授業の力を得ず、独学で性を理解したのです。

久しぶりの投稿

ほぼ三年、お休みしていたようです。

今朝、通勤途中に「セックスとは、性衝動の解消と快楽と承認行為のために行うものなのだ」と思いつきました。
多くの人が解説しているであろう、この根源的な問いについて言及することほど躊躇させられるものはないですね。

それでも、いったん、逃げずに解を出したいと思います。
「性衝動」という用語が正しいかわかりません。次の意味(造語)で使用しています。
「性衝動とは子孫を作るよう仕向けられるホルモンにより異性と性的交わりを求める気持ちを強く心動かされる状態」のこと。
おそらく、哺乳類でなければ湧きおこらない衝動だと思います。
寄生虫によって操られるカタツムリのように、性衝動に操られる哺乳類なのだと考えています。
それは結果を伴うものなので、人はあらゆる理由、特に異性が納得する理由を、その時々の文化レベルに応じて述べ立てる(契約する)のだと考えます。

性衝動があるから快楽があるのか、快楽があるから性衝動があるのか、おそらく前者かと思いますがよくわかりません。
例えば「嗜好品を楽しむ」場合を極端に表現すれば、「快楽を楽しむ」と言えると考えます。しかし、「嗜好品」を人類全員が楽しむかといえば違います。一部に限られます。
ゆえに、快楽を目的にセックスをする人はいても、快楽のみを目的とするのは無理があると考えます。

「承認行為」を世間では「愛」と表現しているのでないでしょうか。
「性衝動」と「快楽」とそれを肯定する理由(契約含む)を、肯定する意味も含めて「お互いに承認しあう」のだと思います。
しかし、常に「それを肯定する理由」を承認しあっているかといえば違うように思います。
むしろ根源的な意味での承認行動、お互いの存在を認め合う、認識しあう、感謝しあう、といったものではないでしょうか。
存在を認め合う、認められることは幸福なことで、一人では実現しにくいものです。

だからなんだと言われれば、なんでもないと答えざるを得ず、落ち無しで失礼しました。