2012-07-31

マニュフェスト

垂れ流されるマスコミ報道を眺めながら、本筋と異なるためついつい頭の後ろに追いやっていたが、ふと違和感を感じていたことを思い出した。

テレビの多くのコメンテーターが、「マニュフェストは必ずしも守らなくてよい。ただ、説明責任は果たすべきだ」などと幾度となくつぶやいていた。
また、その他にも「本来マニュフェストとはポリシーを説くもので具体策など記述しない」や「具体策を記述するもので信念などを記載するものではない」等々。

「マニュフェスト」の本来のあり方や作法などはこの際どうでもよいだろう。もっと言えば「マニュフェスト」という括りであるか否かも問題ではない。

自分の「思い」や「考え」を発表し、他者から多くの賛同を得て、采配する権利を得たのだから「思い」や「考え」を実現するのは当然のことだろう。
そこにはいかなる言い訳の余地もないと思うのだが、汚物のような解説が公共の電波を使って垂れ流されていたように思う。

「賢い」といわれる人が賢そうに話していると何でもそんな気がしてくるから不思議なものだ。

私は「嘘つきは泥棒のはじまり」と教えられた世代だが、最近は「勝てば官軍、負ければ賊軍」としか教えないのだろうか。

2012-07-17

さかなクン

中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。
いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。
突然のことで、わけはわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。
たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。
せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。
けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。
助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。
いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、
なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。
ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。
でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。
学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、
その子はほっとした表情になっていました。
話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、
だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。
大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、
悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。
外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。
広い空の下、広い海へ出てみましょう。

    東京海洋大客員助教授・さかなクン

今日ネットで見つけました。言葉に詰まってコメントできません。でもとても繊細で大きな心を感じます。
「小さい世界に閉じ込めると、何故かいじめが始まるのです。」理由は分らないまでもなんとなく分ります。芯のしっかりした人が居ることを知ると不思議と落ち着きます。私自身もしっかりしていたいと思いました。

2012-07-11

いじめの定義

今日お昼のテレビでコメンテーターがいじめの定義を紹介してくれた。
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」が、いじめであるらしい。

これは2007年以降の文部科学省が定めたもので、以前は、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。」というものだったらしい。
いずれかひとつでも条件に外れれば「いじめ」と断定できないため、裁判で不起訴になることもあったとのこと。

定義としては、今のものでまずまずではないだろうか。

わが子には「もし、いじめにあったなら泣きながらうんこもらして逃げ帰ってもよい。」と教えている。それ以上にいじめという行為が恥ずかしいものであると言いたいのだが、果たして本質的であるか疑問も感じる。

とにかく、「強者もしくは多数派からの一方的ないわれのないしつこい嫌がらせや攻撃」には「脱糞して逃げる」は最適解ではないだろうか。(もちろん、脱糞する必要はないし、さらにそれをネタにされるような深刻な状況下では言うこともはばかれる。)

あるとき、息子が私に相談してきた。「A君が僕にスケベと言ってきた。クラスの僕の席が女の子の真ん中に位置するのが理由。別にそれが目的で座席を決めたわけではないのに。」とのこと。
また、「A君自身も女の子と熱心に話をしてたりして自分のことは棚上げだ」と続く。
ちなみに息子は小学六年生。

本人はそれなりに苦しんでいるようだった。自分の気持ちは違うのだけれど事実関係からきっぱりと否定することもできず。「違う」と言うしかない空しい抵抗に憤りを感じているようだった。
もちろん、自殺を思い詰めるレベルではない。

私は咄嗟に「いじめと嫌がらせは違う。言葉に窮するからと言ってすべてといじめとして逃げることはおかしい」と答えた。
親としては1対1なのだから戦ってほしいという思いで発した言葉だった。

確かにクラス内では、言葉でも力でもA君の方が上のようである。
これが複数の友達から囃されていたのなら状況は違うと思うが、あくまで1対1のようなのである。

子供であるからすべてを親に語ることができないのかもしれない。A君の周りには言葉は発さないまでも仲間の目が攻撃していたのかもしれない。
そうした微妙な力関係に配慮せず、額面通りに受け取り一蹴したことは間違いだったかもしれないと、ここへきて思う。

大人世界には当然いじめがある。格差社会は作られたものだし、消費税増税、国の借金も東電の値上げも、原発推進も天下りもすべて弱者への負担で成り立っている。
強者は言う「社会の構築・維持に一番大きく貢献しているものが良いものを得るのは当然だ。貢献度が少ないものはそれなりのもので満足すべきである。そうがっつきなさんな」と。

人権や人間の尊厳と経済とをいっしょくたに論議するのはおかしいだろうか。文化・文明は経済に裏付けされたものと捉えるのが科学的だろうと思う。(士農工商が成り立たなくなった歴史を見ればよくわかる)

それにつけても、子供の教育は難しい。