2011-08-07

憤り

東電のやらせ問題も今にはじまったことでなく20年間の歴史があるのだろう。
原発村の癒着問題は2000年来の日本固有文化が育んだ成果なのだろう。当然、成果はこれだけではない。

我々は、いきどおりを感じて、怒っているはずだ。しかし、本当に怒っているのか甚だ疑問に感じる。
氷山の一角とはいえ利権に群がる癒着の実態が明らかになりつつも、その根元はいつまでも変わらない。
我々は最初から許しているのではないだろうか。自堕落な自分を許すように、世間を最初から許しているのではないだろうか。

とはいえ、もし、これから5年~10年の内に我が子が癌を発症するようなことがあればどうだろう。
途端に冷静さを欠いている自分が容易に想像できる。
準備や警戒を怠った過去の自分を責めながら言い訳を探している自分も容易に想像できる。
そして、責任転嫁をするだろう。

どんな複雑で難解な数式であろうと、現実を説明できないとしたらその学者はペテン師だ。
どんな複雑で難解な仕組みであろうと、出した答えが「弱きを挫く」ものだとしたらその政治家は詐欺師だ。

その責任転嫁の先はどこになるだろう。
当然そのときは正義も大儀も無いだろう。このときこそ怒っていると評してもよいかもしれない。

果して我々は報復がしたかったのか。それとも恫喝、それとも脅迫がしたいのだろうか。
いや違う、生活を命を脅かされたくないだけなのだ。

いつから今の生活を、未来の命を担保に補うようになったのか。少なくとも今の生活は今の命の責任範囲において全うされるべきものだろう。

まさに今、我々は自分に対して社会に対して、真剣に怒るべき時期に来ているのではないだろうか。

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